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1.3 写真家F.ベアトの足跡
  −−鎌倉(1):鶴岡八幡宮−−


1.概要
F.ベアトは報道写真家として世界各地を回り、文久3年(1863年)に来日しました。横浜の居留地(現在の関内地区)に写真館を開業し、ここを拠点に幕末・明治の日本の風景や風俗を精力的に撮り、それを写真アルバムとして欧米(主に英国)で発表しています。その撮影地域は日本全国多方面に広がっていますが、特に当時の外国人が自由に活動することが許可されていた外国人遊歩区域(ほぼ現在の神奈川県内全域)へはたびたび出向いて撮影し、多くの足跡を写真に残しています。今回、その足跡を訪ね旅の第1回として地元である鎌倉を取り上げてみました。


2.鎌倉の鶴岡八幡宮の足跡
当時、庶民の観光地として人気のあった鎌倉方面へは彼らにとっても手近な距離からピクニック気分で訪れていたようです。鶴岡八幡宮、大仏、江ノ島へは休日を利用し金沢(現在の金沢八景)経由で馬や籠でたびたび訪れていたようです。
今回その鎌倉(1)として「鶴岡八幡宮の写真」をたどってみました。

 (1).撮影のための訪問日:2013年1月24日

 (2).鎌倉八幡宮の時代検証
   F.ベアトの写真がどのような時代背景にあったか、そして現在の状況に至ったかを知るため鶴岡八幡宮の履歴を調べて見ました。

年 代 出  来  事 参考文献等
1063年(康平6年) 源頼朝の祖・源頼義が京の岩清水八幡宮より由比郷鶴岡に勧請
1180年(治承4年) 源頼朝が現在地に「鶴岡八幡宮(若宮)」を還座
1191年(健久2年) 大火で若宮焼失・・・本宮、若宮を新たに造立
1333年(元弘3年) 新田義貞が攻め入り鎌倉幕府滅亡(元弘の役)
1400年〜1500年代 室町・戦国時代に鎌倉は荒廃する
1590年(天正18年) 豊臣秀吉が小田原城攻めの後「鶴岡八幡宮」参拝、その後徳川家康に修理造営を命じる
1604年(慶長9年) 徳川家康・・「鶴岡八幡宮」の上宮、下宮修理実施
1626年(寛永3年) 徳川秀忠・・「鶴岡八幡宮」の諸堂末社造営
1685年(貞享2年) 水戸光圀(黄門)・・鎌倉案内書「新編鎌倉志」刊行
1703年(元禄16年) 元禄大地震・津波で鎌倉大きく被災
1707年(宝永4年) 富士山噴火
1732年(享保17年) 「鶴岡八幡宮境内図」作成される 図1参照
1821年(文政4年) 鶴岡八幡宮の一部焼失
1863年(文久3年) 写真家F.ベアト ・・鎌倉地区の撮影開始 参考文献1の写真
1870年(明治3年) 「神仏分離令」に基づき鶴岡八幡宮の仏教色の強い堂舎(薬師堂、護摩堂、大塔、輪蔵、仁王門)を取り壊す
1887年(明治20年) 境内に「白旗神社」再建
1919年(大正8年) 流鏑馬神事復活
1923年(大正12年) 関東大震災・・鎌倉は地震・津波・火災で甚大な被害を受ける。
段葛の松並木が焼失、鶴岡八幡宮の上宮楼門、下宮舞殿が倒壊
写真16、17参照
1932年(昭和7年) 上宮楼門、下宮舞殿が修復される
2013年(平成25年) 明かり人・・F・ベアトの足跡をたどる。現在の鶴岡八幡宮 写真参照
























                      ** −−−−**


3.主な参考文献・資料
 
以下の作成にあたり下記文献資料を参考としました。
    
1.横浜開港資料館編集:「F.ベアト幕末日本写真集」 昭和62年2月1日第1刷
      2.神奈川近世史研究会編:「江戸時代の神奈川」、有隣堂平成6年1月20日発行
      3.鎌倉市発行:「図説鎌倉年表」、平成元年11月3日
      4.宇苗 満著:「幻の鎌倉」批評社、2008年5月10日初版発行
      5.松尾剛次著:「中世都市鎌倉の風景」吉川弘文館、2004年11月1日第4刷
      6.「関東大震災、鎌倉被災写真」鎌倉中央図書館蔵
      7.小沢健志編:「幕末 写真の時代」第2版、筑摩書房、2010年3月15日発行
    
・特に、F.ベアトの写真は上記参考文献1及び7より引用しております。


    *下へスクロールすると写真がご覧になれます


4.鶴岡八幡宮のF.ベアトの写真場を訪ねて

写真1:   F.ベアトの写真・・鶴岡八幡宮本殿
 F.ベアトの1864年前後の写真です。非常に鮮明な写真であり技術の高さがうかがえます。おそらく鶴岡八幡宮を写真として撮った最初のものであろう。階段に座っている人間はベアトの同伴者か。
写真1-2:   F.ベアトの写真・・鶴岡八幡宮本殿(同上写真の着色版)
ベアトの写真アルバムにはこのような黒白画像を部分的に着色(染料あるいは顔料使用)したカラー版も多くあるようです。細かな色使い、筆使いに驚きます。撮影時にスケッチ画を書いているものと思われます。
写真2: 現在の鶴岡八幡宮本殿(1月24日撮影)
まだ新春の参拝者で賑わっていました。
写真3: 現在の鶴岡八幡宮本殿(別の角度から)
本殿の外観は忠実に継承されているようです。
写真4:   F.ベアトの写真・・鶴岡八幡宮本殿楼門
写真5:   現在の鶴岡八幡宮本殿楼門
現在は楼門前の石灯籠が無くなっています。
写真6:   F.ベアトの写真・・下宮・拝殿(舞殿)
梯子は茅葺きのため防火用と思われます。
写真7:  現在の下宮・拝殿(舞殿)
節分祭の準備が進んでおり、入り口左右の平屋根は豆まき用の仮説のお立ち台であり、通常はありません
写真8:  現在の下宮・拝殿(舞殿)・・・本殿側から
豪華になり、四方の戸が外されているため印象が昔とだいぶ違って見えます。
写真9:   F.ベアトの写真・・若宮社殿
写真10:  現在の若宮社殿
周りに付属の建物が設けられましたが社殿外観は忠実に継承されているようです。
写真10:   F.ベアトの写真・・経蔵(輪蔵)・・・舞殿の左手奥にあった
経蔵:仏教の経典を納めていた堂。 左手の工事足場が架けられている屋根は護摩堂であろう。この二つの堂はその後の神仏分離令で明治3年取り壊されました。
写真11:   F.ベアトの写真・・大塔(二重塔)と薬師堂(左手の奥)
図1の古図には大堂の屋根の上に五輪の金具が付いています。この五輪の金具は明治の新政府になって取り除かれたと言われていますがベアトの撮影時(文久3年)既に無くなっていたようです。 この二つの堂はその後の神仏分離令で明治3年に取り壊されました。
図1: 享保17年(1732年)に作成された「鶴岡八幡宮境内図」・・(参考文献2より引用)
F.ベアトの写真から図1に示されている建物の境内配置が文久3年(1863年)の幕末まで保たれていたことがよく分かります。
写真12:  現在の下宮境内と昔の護摩堂・経蔵の建位置
おおよそ*印位置にそれぞれ堂と蔵がありました。
写真13:  現在の下宮境内と昔の大塔と鐘堂の建位置
おおよそ*印位置にそれぞれ塔と堂がありました。 当時は下宮境内には多くの堂や塔など建ち並び現在より壮観であったと想像されます。
写真14:  神仏分離令で仏教色の強い塔・堂破却直後の下宮・拝殿(舞殿)
明治3年〜9年頃(撮影者不明)・・(参考文献3より引用)
明治元年に布告された神仏分離令は今までの既得権益を根本から覆すものであり鶴岡八幡宮に強い衝撃を与え混乱したようです。仏教的建物を取り壊すのに届け出後約半月の短期間で実施したと言われており、その混乱ぶりが窺えます。そのため建物に付属していた仏像、仏具、経典などは売られたり焼却されたりし散逸してしまったようです・・・これらの詳細は参考文献4を参照下さい。 
なお、このとき正式名称が「鶴岡八幡宮寺」から「鶴岡八幡宮」に変わり、上宮楼門の額も書き変えられました。入り口の仁王門が取り払われ鳥居が設けられていることがこの写真から見て取れます。
写真15:  明治10年代の拝殿(舞殿)と若宮社殿(撮影者不明)・・(参考文献3より引用)
この時代になり混乱も収まり建物も整備されてきたようです。
写真16: 関東大震災(大正12年)による鶴岡八幡宮の惨状・・(参考文献3より引用)
鎌倉の寺社はどこも甚大な被害を受けました。写真のように鶴岡八幡宮は上宮楼門と下宮舞殿が倒壊しました。
写真17: 関東大震災による鶴岡八幡宮の惨状(別の角度から)・・(参考文献6より引用)
本殿への石段も傾いており、地震の大きさが見て取れます。昭和7年にやっと修復再建されました。

4.むすび・・・「F.ベアトの写真」の位置付け
 毎年何回も訪れている鎌倉八幡宮、この機会に改めてその歴史を調べいろいろと再認識し有益でした。特に参考文献や資料を調べる中でF.ベアトの鶴岡八幡宮の写真以前の写真が発見出来無かったことで、その写真の歴史的貴重さが分かりました。明治初期の神仏分離令以降激変した新しい「鶴岡八幡宮」、それ以前の徳川家康・秀忠が修理造営し整えた諸堂末社の全体像を長く継承してきた神仏混合の古い「鎌倉八幡宮}、その全体像を鮮明な写真として捉えた、おそらく最古のものであり歴史的価値があると位置付けできます。

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